岡 潔(おか きよし)をご存知でしょうか。天才的な数学者でありながら教育者としての側面を併せ持つ人物です。
“学問に大切なことは情緒である。人の中心は情緒であるから”
数学といえば論理的な学問であるイメージをもっていたので非論理的な「情緒」が大切とはどういうことか。
しかも天才数学者がそう言っている。
この言葉だけで私はグッとこの本に興味をそそられました。
今回はそんな岡 潔の春宵十話について書きたいと思います。
天才数学者 岡潔とは
岡 潔(おか きよし)は1901年大阪府生まれ。
幼少期を父の故郷である和歌山県伊都郡紀見村で過ごしました。
自然豊かな場所で幼少期を過ごしたことが後の岡の表現にも影響しているのかもしれません。
京都大学の物理学科に入学したが、一年生の途中で数学科に転入しました。
岡自身は数学者ということで数学が昔からできたかといわれるとそうではなく、数学よりも物理の方が学問に貢献しやすいと考えたためまず物理学科に入学したと振り返っています。
そんな彼が数学に没頭するようになったエピソードはある日の大学の期末試験で証明問題を解けた際に嬉しさのあまり教室中に響く声で叫んだ経験と述べています。
これが天才数学者の初めての証明の喜びとなり数学の道を志すきっかけとなりました。
28歳の時にフランスのソルボンヌ大学へ留学し、生涯の研究テーマである「多変数解析函数論」と出会います。
その問題は多くの数学者が匙を投げるほどの難問でした。
しかし岡は20年という歳月をかけ、たった一人でその難問を証明してしまいました。
一人で未解決問題を解決した人物。
その異彩な業績から世界の研究者からは「岡 潔」は個人ではなく優秀な数学者集団のペンネームだと思われていたこともあります。
春宵十話というタイトルと構成
まず、春宵十話(しゅんしょうじゅうわ)というタイトルの意味から考えていきます。
Googleで調べてもタイトルについて本人が述べたことは見つけれなかったので個人的な解釈になります(知っている方はコメントで教えていただけると幸いです)。
春宵とは春の夜という意味です。そのまま訳すと「春の夜の十の話」になります。
「春宵一刻値千金」という言葉があり、春の夜はとても心地がよく少しの時間でもとても貴重という意味です。
次の項で具体的な名言を紹介しますが岡は春に対する思いいれがあったのかもしれません。
春宵十話の構成としては人間論、宗教、教育、数学、芸術など多岐のジャンルについて論説しています。
一つのテーマについて大体5~6ページにまとめられているので飽きずに読むことができます。
また、岡が話したことを記者の松村洋氏がまとめたため難解な表現はなく非常に読みやすかったです。
数学者のエッセイということで読みにくいかもと身構えるかもしれませんが、「思ったよりも一気に読める!」というのが私の感想でした。
春の野のスミレのように
自分は脳外科医ですが患者さんの状態がよくない時や治療がうまくいかなかった時に
「これは誰かのためになっているのだろうか?自己満足ではないのか?」
と自問自答してしまう時があります。
私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただのスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。
春宵十話より
この言葉で自分の心はかなり軽くなりました。
自分の行為が人の役に立つか立たないか打算的に考えずにやるべきこと、心の赴くものに取り組むことが大切だと気づかされました。
「絶対に人の役に立つような発見や治療をしてやる!」と息巻くことも大事ですが、この方法でモチベーションを維持しようとすると難しい時期もあります。
人の役に立つことを目標にすると期待通りに感謝されたときはいいですが、思うように評価されなかったときに落胆してしまいます。
目標を自分の努力ではコントロールできないところにおかないことは重要です。
これはブログでも同じでpv数はコントロールできませんが1ヶ月に書く記事数は努力でコントロールできます。
春の野とスミレが出てきましたが、春宵十話というタイトルからも岡の春へのおもいが感じられますね。
学問と人の情緒の関係
冒頭でも触れましたが、岡は以下のように述べています。
“学問には人の情緒が大切である。なぜなら人の中心は情緒であるから。”
人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。
春宵十話より
粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ。
この言葉にもハッとしました。
医学部受験を勝ち抜くためには数学や物理などの理系分野で高得点をとることが求められます。
その中で学生時代に「情緒」を学んだと胸を張れる医師は少ないと思います。
受験戦争では「情緒」などといった概念よりもいかにテストの点数を得るかの実利の方が優先される傾向にあります。
しかし、それは近道をしているようで遠回り、はたまた遠ざかっているのかもしれません。
医師という職業は人の心を知ることが必要です。
みんな大学入試の面接では紋切り型に
「患者さんの気持ちに寄り添える医師になりたいと思います。」
と答えます。
無事試験をクリアするとみんなそんなことはとうに気にしなくなります。
そうして「情緒」のない医師は患者さんを「個人」ではなく「病気の名前」で扱うようになります。
これは引用にもあげましたが“対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけ”
の状態ですね。
昨今、問題にあげられている
「患者の顔を見ずにパソコン画面だけを凝視する医師」「持ち時間1時間、診察時間5分」
私も医師なので医療者の気持ちは痛いほどわかります。
限られた外来時間の中で多くの患者を見るためどうしても一人に当てられる時間は少ないです。
ただ、時間は短くてもその一瞬は全力で目の前の患者に関心を寄せようと心がけています。
少なくともパソコンを見ながら喋るのは控えています。
短い時間で患者さんの病状から性格までを勘案して適切な対応をするのは間違いなく「情緒」が必要です。
幼児教育に対する早熟の危険性
岡は幼児教育や義務教育に対しても危機感を抱いていました。
人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。
春宵十話より
それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。
ただ育てるだけなら渋柿の芽になってしまって甘柿の芽の発育はおさえられてしまう。
渋柿の芽は甘柿の芽よりずっと早く成長するから、成熟が早くなるということに対してもっと警戒せねばいけない。すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。
これが教育というものの根本原則だと思う。
岡は、人間の成熟における動物性と人間性を渋柿と甘柿にたとえています。
「小学生で中学校の数学が解ける」
「幼稚園から英会話を習わせる」
親は自分の子が早熟であることを喜びます。
しかし、早熟であることが人間性の成熟を妨げると警告しています。
受験競争が激しい日本の教育界では、
学問の本質を教えることより小手先のテクニックを素早く覚えさせテストで高得点をとることが評価されてしまいます。
確かに受験勉強では早熟であることは有利に働く一面もあります。
しかし本質を学ぶことなく表面的な成熟で受験をクリアした人は、その後の成長が頭打ちになります。
人間性の芽というのはすなわち「情緒」でしょう。
親や教師など子供の周りの大人は焦らずにゆっくり子供の成長を見守る器量が必要でしょう。
そして目に見える結果に固執せずに人間として重要な「情緒」を育ててあげましょう。
人間の本質、情緒とは何だ?
ここまでの話で人として大切なことは「情緒」であることはわかりました。
果たして「情緒」とは具体的にどんなことでしょう。
岡は以下のように表現していました。
人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。
春宵十話より
たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。
具体的に説明するといって拍子抜けしてしまいますよね。
自分もこの記事を書くにあたって最後は具体的な「情緒」を説明して締めようと思っていました。
しかし、早熟を危惧することのようにすぐ答えを得ようとしてしまうのはよくないと方針が変わりました。
岡も「さまざまな」色どりの草花と表現しています。
各個人で多様な考えがあると思います。
この春宵十話には、人間の本質である「情緒」をいかに養うかについて多くのヒントが述べられています。
本を参考に自分と照らし合わせて自分だけの色を見つけていくのも面白いかもしれません。
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